砂漠で溺死

本と映画を、ネタバレ全開で書きます。

「考えさせられる」という言葉が嫌

「この映画は考えさせられる映画だよねえ」とか言われると、なんだかしっくりこないというか、気持ち悪い感じがする。

そもそも考える、というのは自発的に行われるものであって、「考えさせられる」という言葉からは「考えることを強いる」みたいなニュアンスを感じて、嫌だ。考えさせられなければ考えないのか、と思ってしまう。

意味を調べてみると、「問題を提起している」とか「示唆に富んだ」とかが類語に挙げられている。

でも、この問題を提起しているというのも曖昧で、それは作者の意図如何によって変わってしまうものだよね。たとえばアンパンマンも、見ようによっては「このアニメは日本の教育の倫理観を反映しているものだ」みたいなメッセージを受け取れないこともないし、そうなると、問題提起の線引きってどこにあるの? 観る人によって変わってきてしまうよ。 

「考えさせられる」が「問題を提起している」だとすると、「この映画は問題を提起している映画だよねえ」ってなるけど、そういうこと言われるような映画ってドキュメンタリーとか社会問題をテーマにしたものとか、明らかに問題を提起している映画ってことでしょう? すでに問題を提起している映画を「これは問題を提起している映画だよねえ」って言うのっておかしくない? 当たり前じゃないの。形容詞として、これはどうなの。

お母さんになりたい|川上未映子『きみは赤ちゃん』

 

きみは赤ちゃん (文春文庫)

きみは赤ちゃん (文春文庫)

 

 

作家の川上未映子が妊娠してから、その子どもが一歳になるまでを綴ったエッセー集。

 

自分は男性なので、子どもを産むことができない。だから、たぶん女の人よりも、赤ちゃんとの距離がある。なんだかそれって、けっこう悲しいことなのかもしれないと思った。

でもとにかく、そんなことを思わせるくらい、母親って赤ちゃんと密な関係で、とっても大変なのだ。子どもを産んで育てるというのは、文字通り命がけなのだ、とわかった。

なんだか、そんな本気の作業を、何年も何年も、果てしないくらいのすべてのお母さんがしてきたのだと思うと、人類ってすごい。というか、お母さんってすごい。

幼稚な考えだけれど、どんな人も昔は赤ちゃんで、お母さんに見つめられて、大事に守られてきたのだと思うと、そんな簡単に人を悪く言ったりは、できないのではないのかな。

 

読むとなんだか、あたたかい気持ちになれるような、そんな本でした。

太宰治『ヴィヨンの妻』

 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

 表題作の「ヴィヨンの妻をこれまでに何回も何回も読み直しているのだけれど、いまだにこれは、よくわからない。なんだろう、この女の人は。や、太宰は新しいタイプの家庭のモデルを提示したのかもしらんが、男の人に襲われても次の日変わらず出勤してる人って、なんなの。説得力、ないよねぇ。でも、なんかこの話好き。不思議な魅力。


太宰は自分を外から眺めるのが好きらしい。「ヴィヨンの妻の冒頭、酔った夫が家に帰ってくるのに対して、「おさん」の冒頭ではこれから酔いに行く夫が家を出ているシーンがあって、対照的。でもどっちにも出てくるのは浮気するだめ夫と、誠実な(?)妻で、多少の違いこそあれ、この本の作品に出てくるのは全てこのタイプの男女である。そういえば、太宰が描く「妻」みたいな女の人って、最近はなかなかいないんじゃないか。女性の男性化、男性の草食化が叫ばれて久しいが、こういう種類の人たちも、旧型の男女イメージからはみ出した存在であるので、そういう意味では、太宰が生きていた時よりも、太宰の作品を受け入れる土壌が、現代にはできているのかも。


今の時代、いわゆるステレオタイプの家庭像はほぼ崩壊しつつあり、別居婚とかもさして珍しくない。太宰を追い込んだ原因のひとつが家庭、だとするならば、彼にとって今なら少しは生き易い時代になっているのだろうか。いや、太宰にとって生きることが「易い」なんてことには、ならないだろう。だって、そしたら太宰じゃ、ないもんねえ。

太宰がドッキリしかけられたら……|太宰治『きりぎりす』

 

きりぎりす (新潮文庫)

きりぎりす (新潮文庫)

 

 太宰治は、笑える。「人間失格」とかカフカの「変身」とか、あれはコメディだよねとか言う人もいるけれど、それは作者の意図と反しているか否かわからないので純粋には首肯しかねるが、少なくともこの本の中のいくつかの作品は、完全にウケを狙って書かれているのがわかる。とくに「畜犬談」なんて爆笑。コントみたいで、でも最後はなんか感動したりして、よくこんなの書けるよなといまさらながら感心。

でも、笑いと狂気はやっぱり表裏一体で、見方をちょっと変えればどちらにもなりうる。前から思っているのだけれど、バラエティ番組とかでやっている、ドッキリ、私はあれで笑えない。おもしろさはわかるのだけれど、人が熱湯に浸かったり落とし穴に落ちて仰天している姿を見ると、どうしても笑えない。あれは、人の失敗を見て優越感を感じることが前提の笑いなのではないか。

でも、と、そのあとすぐに思う。そんなことを言ったら笑いなんてみんなそんなもんじゃないか、お前は落とし穴に落ちる人を見て嬉しがる人たちに眉をひそめているが、お前の中に、他人を嘲る心が少しでもないと言うのか。だとしたら堂々と笑っている彼らの方が、まだまっとうなのではないのか。

頭の中にもやもやがたちこめるので、私は、すぐチャンネルを変える。問題から逃げる。太宰がドッキリしかけられたら、どうするのだろう。気づいていても自分から落とし穴に入るだろうな。そうして皆を喜ばせてから、泣きながら小説書くんだろうな。あれなんか、かっこよくないか、太宰。

 

7/3追記。個人的に気になった個所の引用。

「……彼は、その衝動を抑制して旅に出なかった時には、自己に忠実でなかったように思う。自己を欺いたように思う。見なかった美しい散水や、失われた可能と希望との思いが彼を悩ます」……見物の心理とは、そんなものではなかろうか。大袈裟に飛躍すれば、この人生でさえも、そんなものだと言えるかもしれない。見てしまった空虚、見なかった焦燥不安、それだけの連続で、三十歳四十歳五十歳と、精一ぱいあくせく暮らして、死ぬるのではなかろうか。p215,「佐渡」より  

 

作家は、歩くように、 いつでも仕事をしていなければならぬという事を私は言ったつもりです。……どこまで行ったら一休み出来るとか、これを一つ書いたら、当分、威張って怠けていてもいいとか、そんな事は、学校の試験勉強みたいで、ふざけた話だ。なめている。……「傑作」をせめて一つと、りきんでいるのは、あれは逃げ仕度をしている人です。p298,「風の便り」より

 

表現者とかって

お笑い芸人やら作家やらミュージシャンやら、夢を追ってばしっとつかむタイプの職業をやってらっしゃる方は30歳でも無職とか普通で、「おれは30にもなってなにをやっているんだ」ってぽつりぽつりと溢すそれらが(意識せずして?)かっこよかったりする。

いや、人間80年とまで言われる昨今、30歳なんて言ったらまだ半分以下のペーペーなのであって、そんな若造がちょっとぐらい芽が出なかったぐらいで人生悟った気になって「俺の人生ここまでか……」なんて弱音を吐くこと自体が生意気、てか不遜、みたいな意見もあるけれど、やっぱりその道は先がまったく見えないのであって、いつ晴れるのかわからない暗闇の中を何年も手探りで進むときの気持ちはいかほどか、考えてみると、彼らはものすごい。それだけで立派。

30歳の自分なんて未だ想像もつかない私の目には、目先のこまごまと山積しておる物物しか映らない。薄闇の中でぬくぬく這い進む芋虫の頭上に見える、修験者のような表現者たちの姿には、まるで別の生き物のような神聖さと、しかしその裏でたしかに溢されるひっそりとした嗚咽が耳についたりして、なんだかやっぱり畏敬、人の人生って何なの。

選択するということの、圧倒的な。

村上春樹の「カンガルー通信」て作品(もしかしたら違うかもしれない)に、

「ぼくの願いは二つのところに同時に存在したいということだけだ」みたいな言葉が出てきて、ああ、と思ったことがある。

昔からあれこれと思い悩む性格で、ひとつのものを選択したらもう一方のものが急に惜しくなり、だから決断するということはいつも重荷だった。

それでそのうち、決断すること自体が腹立たしくなってきた。なぜどっちも選んではいけないのだろう、なぜそこで可能性を制限しなくてはいけないのだろうと。

現実には大学や会社にいくつもはいったりは不可能だけれど、なんだかそれがとてつもなく理不尽なことに思えた。なぜ一通りの人生しか生きられないのだ。

存在の同時性、しかし、自分が複数の生を同時に享受できるとしたら、どうなのだろう。全員無職になりそうな気もする。

一回性の限りある生命を大事に生きなければならないというのは、言っちゃえばありきたりなことで、だからこそ説得力も暴力的なのだけれど、それでも、一人の人間としてしか生きられないのはなんとなく悔しい。人種や性別や年齢に否応なく縛られていることで、既に何かに負けている気がする。いや、何かはわからないけども。

伊坂幸太郎『砂漠』

 

砂漠 (新潮文庫)

砂漠 (新潮文庫)

 

 

いままで伊坂幸太郎を読んだことがなかった。もし読んで、好きになってしまったらと考えると怖かったのだ。知り合いに「好きな作家は?」と聞くと、半数ぐらいは伊坂幸太郎の名前を上げる。あと東野圭吾。そんなに多くの人が言うのなら面白いのだろうけど、俺は大勢にはなびかないもんねっと意地を張り、読まずにいたのである。

しかし最近、自分がどうやら青春小説が好きだということに気がつき(結局ミーハーなのだ)、何か良いものはないかと探していたところ、この『砂漠』という本の評価が高かったので、殻を破るつもりで一発、読んでみたわけです。

 

・あらすじ

入学した大学で出会った5人の男女。ボウリング、合コン、麻雀、通り魔犯との遭遇、捨てられた犬の救出、超能力対決…。共に経験した出来事や事件が、互いの絆を深め、それぞれ成長させてゆく。自らの未熟さに悩み、過剰さを持て余し、それでも何かを求めて手探りで先へ進もうとする青春時代。二度とない季節の光と闇をパンクロックのビートにのせて描く、爽快感溢れる長編小説。

                   内容(「BOOK」データベースより)

 

あの、ひとことで言ってしまうと、めちゃめちゃ面白かったです。まず、この本500ページもあるのですが、これを飽きさせずに一気に読ませてしまう時点ですごい。こんなに集中した本は最近でもあまりないかもしれない。

こういう王道の青春小説ってすごくみずみずしくてみんな楽しそうだから、そういうワイワイしたのが苦手な自分はだめかもな、と思っていたけれど、全然そんなことにはならなくて、むしろそういう人が読んだらいいのかもしれない。読後には、すごい喉乾いてるときにコーラを一気飲みした時のような爽快感がある。ぷはーって。

 

なんか、若いって大変だなあ、と、読み終えたときに思った。

自分がこの先どうなるかなんて全然わからなくて、でも将来の夢、というか、それまで無尽蔵に溢れ出ていた可能性の塊みたいなものがだんだんと目の前で小さくなっていくのがわかって焦り、そういう不安やら怒りなんかが行動するエネルギーの源になったりもして、なんだか忙しいなあと思う。

でも、こんな素敵な大学生活を送った彼らは、将来もきっとうまくやっていくだろうな。楽しかった思い出は自分のからだの奥のほうにひっそりと降り積もって、普段は見えないけれど、ふとしたときにきらっと光って、あたためてくれるような気がする。

 

物語の終わりのほう、ある生徒の一人が彼らに向かって「本当はおまえたちみたいなのと、仲間でいたかったんだよな」と言う。これってものすごいことじゃないか。そんなこと面と向かって言わせるやつらってただ物ではないと思う。そんなただ物でないやつらと500ページも共にできたことを嬉しく思います。どうもありがとう。