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砂漠で溺死

「すごい自意識だなあ」と笑う自意識

伊坂幸太郎『砂漠』

 

砂漠 (新潮文庫)

砂漠 (新潮文庫)

 

 

いままで伊坂幸太郎を読んだことがなかった。もし読んで、好きになってしまったらと考えると怖かったのだ。知り合いに「好きな作家は?」と聞くと、半数ぐらいは伊坂幸太郎の名前を上げる。あと東野圭吾。そんなに多くの人が言うのなら面白いのだろうけど、俺は大勢にはなびかないもんねっと意地を張り、読まずにいたのである。

しかし最近、自分がどうやら青春小説が好きだということに気がつき(結局ミーハーなのだ)、何か良いものはないかと探していたところ、この『砂漠』という本の評価が高かったので、殻を破るつもりで一発、読んでみたわけです。

 

・あらすじ

入学した大学で出会った5人の男女。ボウリング、合コン、麻雀、通り魔犯との遭遇、捨てられた犬の救出、超能力対決…。共に経験した出来事や事件が、互いの絆を深め、それぞれ成長させてゆく。自らの未熟さに悩み、過剰さを持て余し、それでも何かを求めて手探りで先へ進もうとする青春時代。二度とない季節の光と闇をパンクロックのビートにのせて描く、爽快感溢れる長編小説。

                   内容(「BOOK」データベースより)

 

あの、ひとことで言ってしまうと、めちゃめちゃ面白かったです。まず、この本500ページもあるのですが、これを飽きさせずに一気に読ませてしまう時点ですごい。こんなに集中した本は最近でもあまりないかもしれない。

こういう王道の青春小説ってすごくみずみずしくてみんな楽しそうだから、そういうワイワイしたのが苦手な自分はだめかもな、と思っていたけれど、全然そんなことにはならなくて、むしろそういう人が読んだらいいのかもしれない。読後には、すごい喉乾いてるときにコーラを一気飲みした時のような爽快感がある。ぷはーって。

 

なんか、若いって大変だなあ、と、読み終えたときに思った。

自分がこの先どうなるかなんて全然わからなくて、でも将来の夢、というか、それまで無尽蔵に溢れ出ていた可能性の塊みたいなものがだんだんと目の前で小さくなっていくのがわかって焦り、そういう不安やら怒りなんかが行動するエネルギーの源になったりもして、なんだか忙しいなあと思う。

でも、こんな素敵な大学生活を送った彼らは、将来もきっとうまくやっていくだろうな。楽しかった思い出は自分のからだの奥のほうにひっそりと降り積もって、普段は見えないけれど、ふとしたときにきらっと光って、あたためてくれるような気がする。

 

物語の終わりのほう、ある生徒の一人が彼らに向かって「本当はおまえたちみたいなのと、仲間でいたかったんだよな」と言う。これってものすごいことじゃないか。そんなこと面と向かって言わせるやつらってただ物ではないと思う。そんなただ物でないやつらと500ページも共にできたことを嬉しく思います。どうもありがとう。

綿矢りさ『蹴りたい背中』

 

 

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

 

 

「さびしさは鳴る」

十七歳だったぼくは、この最初の一文を読んで震えました。

「そうか、さびしさは鳴るんだ!」と叫ばんばかりでした。

流れるような気持ちの良い文章で、書いたのが19歳の女子大学生で、そして何より、クラスに馴染めない女子高生という主人公に、ぼくは何より共感を覚えました。親近感といっていいかもしれません。

周りを軽蔑して強がっている主人公に親しみを感じ、でもそんな虚勢が本当は幼稚でかっこ悪いというのも心のどこかでわかっていて、そういうぼくをまるで全部わかっているような顔をしていたこの本が、ぼくは大好きでした。

「主人公の女の子の気持ちがこんなにわかるのはぼくだけだ」と誇らしく、二人(主人公とぼく)で周りの同級生を馬鹿にして、なんとか苦境を乗り越えようとしていました。今考えたらとてもばかばかしいのだけれど、その時は必死でした。今思えば、この小説がぼくの将来を動かした要因のひとつであると言っても過言ではありません。

 

クラスに馴染めず暗い高校生活を送ったそんなぼくは、数年後、『蹴りたい背中』を読み返してみたのでした。さながらかつての親友に会う時のような期待。

「よお、どうしてたの?ひさしぶりじゃん」と、気軽にお互いの肩を叩きあうような気持でページをめくりました。

しかし、どうしたのでしょう。読んでも読んでも、かつてのような興奮は得られない。心に響いてこない、セリフが、どこかよそよそしい。親友はどうしてもぼくに目を合わせてくれない。なあ、ちょっと、ぼくを見てくれ、話をしてくれ!

 

いや、これは違います。変わったのはぼくのほうです。それは明らかです。

あんなにつらくて苦しかった高校生活も、何年か経てば「まあ、そんなこともあったよね」で済んでしまいます。だんだん色彩の薄い思い出の層の中に取り込まれて、あと10年もすれば薄ぼんやりとしか思い出せなくなるのでしょう。

苦しい戦いをともに乗り切った戦友だけがいつまでも物語の中で戦い続けていて、ぼくは彼女のことを見捨てたような、どこか後ろめたい気持ちに襲われるのでした。

 

それでも、ぼくは学校や会社でうまくいってない人にこの本をおすすめします。

自分の気持ちをわかってくれる人が一人でもいるっていうのは、すごく大きなことだと思います。そしてそれは、必ずしも生身の人間でなくてもいいと思います。それで苦しみがちょっとでも減るんだったら関係ないですよ。

ひとりぼっちで惨めな自分を否定しようとしている女の子、に共感して物語に逃避していたぼくも間違いなく惨めで、ただ傷を舐めあっていただけかもしれないけれど、でもそうしてなんとか生き延びたのだから、まあ、それでもいいんじゃないですか。

かっこ悪く周りの悪口言いながらでもなんとかやり過ごしましょうよ。そんで楽になったら「そんなこともあったね」って笑いましょう。たぶん主人公の女の子も許してくれます。背中蹴られるかもしんないけど。

ぶるぶるほっぺと水の音

中学生のころ、友達のA君の家に遊びにいった。

学校の前で待ち合わせ、A君の後を追って自転車を漕いだ。10分ほどしてA君が一軒の平屋の前で止まったとき、ぼくはぎょっとした。

それは今まで見たことがないほど(そしてこれからもおそらく見ることがないほど)ぼろぼろで、建っているのもやっとのような家だった。白やピンクなど華やかな色をした周りの家に比べ、腐った小豆のような色をしたトタン屋根のその家は、肩身が狭そうに、ぽつりと建っていた。ぼくはTVで見たどこかの国の、磁場で不自然な形に曲げられた家を思い出していた。

玄関の前の庭のような小さなスペースにはバケツやわけのわからない家電製品があちこちに置き捨てられており、その一画には茶色のダックスフントが首輪に繋がれ、尻尾を振ってぼくとA君を見ていた。なんだか世紀末みたいだった。

絶対外で飼う犬種じゃないだろと思いつつも犬の腹を撫でてやると、とんでもなくくさかった。犬はこんなにくさくなるのかと感動さえした。A君は笑っていた。

ごちゃごちゃとした玄関で苦心して靴を脱ぎ、A君の後に続いて薄暗い廊下を歩くと、タイル張りの風呂を掃除していた背の小さなおばあさんと、開け放されたドア越しに目が合う。微妙な間があったけれど、結局挨拶をする前に通り過ぎてしまった。

リビングに入ると、よその家の独特なにおいが鼻についた。庭と同様に、リビングは脱いだ洋服やコンビニ弁当の空き箱などで雑然としており、それらに埋もれて、A君の妹がDSを黙々とやっていた。彼女は挨拶したぼくをちらりとみるなり、背中を丸めて再びDSの世界に戻っていった。

A君とぼくは、その当時流行っていたゲームをやるために集まったのだった。もくもくと二人で協力プレイをしていると、遠くで水の音が聞こえ、おそらく風呂を洗う音だろうが、それはいつまでたっても鳴りやまなかった。ボタンを押すカチカチという音と、ゲームの効果音、水の流れる音だけが、静かな部屋の中でこんもりと響いた。

そんな異様な空間の中で、ぶよぶよとしたほっぺを揺らしながら笑うA君だけがいつもと変わらなくて、その時ぼくはなぜだかA君を頼もしく感じたのだった。

5時ごろになって、ぼくは帰ることにした。廊下を渡るときに挨拶をしようと思ったのだが、風呂のドアは閉まっていて、おばあさんはどこかに行ってしまっていた。

意味もなく吠えるダックスフントの鳴き声を背中に聞きながら、ぼくはA君の家を出た。新鮮な空気がとてもおいしくて、なんだか泣きそうになった。陽が沈む中、ぼくは心に受け止めきれないもやもやとした感情を抱え、それをぶつけるように、ただひたすらにペダルを踏み続けたのだった。

 

家に帰ると、母が夕食を作って待っていてくれた。温かい部屋でいつもと変わらない様子で次々と並べられていく料理を見つめながら、ああ、あの狭くかび臭い部屋の中にA君は今もいるのだと思うと、箸を持つ手がぷるぷると震えた。

比留間久夫『yes・yes・yes』

 

Yes・yes・yes (河出文庫)

Yes・yes・yes (河出文庫)

 

 「読むといい」と言って、暗い目をした友達がこの本を貸してくれた。

男娼のことを書いていることくらいしかわからなくて、興味本位で、悪く言えば好奇心だけでページをめくり始めた。

しかし、はじめの「プロローグ」の何ページかを読み、皮膚の内側がぶるぶると震えるような、奇妙な興奮、恐怖がぼくを襲った。まるでいけないことが見つかった小学生のように、心臓が痛かった。

 

僕は歌を歌っていた。……そしてある日、とうとう何も歌えなくなっていた。僕の中に『歌』がないとはっきり気づいたからだ。幸福な日々の生活、理解のある親、口では貶しながらもどっぷり安住してしまっている学校生活……。たとえば僕は悲しみ一つを歌うにしても、ぼくのそれは嘘のように感じられた。だって実際、僕の中には悲しみなんて、これっぽっちもなかったのだから。嘆きも、願いも、怒りも、すべて、何もなかった。

主人公のジュンは、そんな自分を「破壊」するために、夜の街で身を売ることを決める。

小説を読んでいると、ときどき、「これは自分が書いているのではないか」と思うほど、自分と同じことを考えている文に出会う。

「ジュン」は紛れもなく、ぼく自身でもあった。うまく言えないけれど、これはぼくの物語であるのかもしれないのだと思った。

「ジュン」が抱えていた、空虚感という言葉では言い表せないほどの、どうしようもない空っぽな感じが、ぼくには痛いほどわかったのだ。自分の周りに膜があって、結局自分はその膜を通してしか世界と関わることができないのだというような、一種のあきらめ。自分が本当に生きているのだかわからないような倦怠感。

甘いとか、ガキだとか、そんなのはわかっていた。でも、「ジュン」は、この本の中でそんな自分を壊した。結果どうなったのかは別にしても、ジュンは自分を破壊して、一から作り直すほど、真面目に、真剣に生きようとしていた。

ぼくは、そんなジュンの残骸なのかもしれなかった。自分の中に何もないととっくにわかっていても、それをぶち壊す勇気はなかった。ぬるま湯の温度が気に食わなくても、いつまでも抜け出そうとはしなかった。臆病だった。

この本を読んで、「ああ、自分は、ただ寂しかっただけだったんだな」と思った。たくさん本を読んで、何かわかった風な口をきいていても、結局は、ぼくは自分というものを誰かに認めてほしかったのだ。自分の殻にこもって、そこからしか世界を覗かなかったくせに、そんな自分を誰か分かってもらいたくて、しかたなかったのだ。

この本を読んで、ある部分ではその願いは叶ったと思う。でも、同時にそんな自分のことをひどく惨めに感じた。ぼくはいつまで経ってもガキだった。一生懸命もがいていた気になっていたけれど、結局一歩も成長していないのだと、どうしようもなく突きつけられた。

 

本を閉じると、もうすぐ夜が明けようとしていた。ぼくは重くなった頭を抱えて、ベットに潜り込んだ。うっすらと白んできた空をぼんやりと眺めながら、次に目が覚めたとき、俺は変わっているだろうかと考えた。ちょっとくらいは、いままでと違う自分になっているのではないかと。

頭の奥で、誰かが笑ったような気がした。

『悪童日記』 アゴタ・クリストフ

 

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 悪童日記。名前だけは聞いたことある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

日本で出版されたのは1991年。当時この本は絶大な反響を呼び、1990年代の海外文学作品の中で最も人気のある作品になったそうです。

読んでみると納得できます。この本、めちゃめちゃ面白い。

この本は第二次世界大戦中、〈大きな町〉から〈小さな町〉へ疎開してきた双子の少年が、祖母の家でさまざまな困難を乗り越えながらたくましく成長する物語です。……と書いても、それはあまり正確ではないでしょう。なぜなら主人公の双子が、あまりにもたくましく、賢すぎるからです。

彼らは、その内に独自の規範を抱えながら生活していきます。誰かに殴られたら、お互いの身体を殴り合い、痛みに慣れてしまう。断食の修行をして、飢餓にも慣れてしまう。乞食の気持ちを知るために、町で乞食の振りをして物をもらい、その後もらったものは捨ててしまう。すべて自己訓練なのです。そうして彼らは、その状況をどこか楽しんでさえいます。必要とあらばためらいなく人を殺すこともできる姿は、不気味です。

また彼らは、ものすごく頭がいい。神父を脅迫し、権力のあるものには恩を売り、そうやって微妙な人間関係をうまく利用して有利な立場に立ちます。「悪童」たちに翻弄される彼らの姿は滑稽であり、また痛快でもあります。

そもそも双子が書いた体験記の連なりとして書かれている文章は、いっさいの抒情性を排し、ただ事実のみを客観的に書くことに終始します。しかし文章から温かみが消えることはなく、情景がありありと浮かんでくるところから、著者の文章力がいかに卓越したものであるかがわかるでしょう。

著者であるアゴタ・クリストフは1935年にハンガリーで生まれ、1956年のハンガリー動乱の際に西側に亡命したそうです。そんな著者の体験が、この作品には色濃く投影されているように感じます。

ぼくが面白いと思ったのは、双子の、ドイツに対する見方です。戦時中ハンガリーはドイツに占領されおり、双子と祖母が住む家にもドイツの将校が出入りしていました。そして双子は、そんな将校のことを好意的に捉えているのです。実際お互いに仲良くなり、毛布を貸してくれたり、将校が借りていた部屋のベッドに寝かせてくれたりもしてくれます。ドイツ人のことを、自国を占領していたのにもかかわらず、双子は良い存在として書いています。一方、ナチスが撤退した後にやってくるソ連軍は女性を強姦したり土地を売ることを強要したりと、悪い存在として書いています。

ぼくはそれまで、ナチスドイツ=悪という考えがどうしてもあったのですが、ここではそういった安易で二元的な決めつけはしていません。なんというか、集団と個人を結び付けてはいけないのだなあ、と感じました。ナチスがやったことはまったく許されないこともあるけれど、一方で中には人間味あふれる人たちもいたことを忘れちゃダメですね。

この物語は三部作で、『ふたりの証拠』『第三の嘘』と話が続いていくのを読み終わって初めて知りました。双子はどうなってしまうのでしょう……。楽しみです。

『流跡』 朝吹真理子

 

流跡 (新潮文庫)

流跡 (新潮文庫)

 

 ものすごい本でした。

小説には筋があって、ひとつの直線状をよどみなく進んでいくものだと思っている人が読めば、口をあんぐりと開くでしょう。衝撃です。

本の題名の通り、いくつかの断片的な話が次々に流れてゆきます。嫌な夢をずっと見続けているような。気怠い熱で、読んでいるうちに頭が重くなるような。

特にすごいとおもったのは、デビュー作とは思えないほどの文章力です。

はれ。ひやらひやら。

(中略)

やんややんやとビルの間の煙突を囲むように集いはじめ、はれ。ひやらひやらと、でたらめな調子をとって囃したてはじめる。おおきな円陣をくんで踊りだし、どこからやってくるのか、つぎからつぎに、肥えた金魚が円にくわわる。光が照りみちて、とめどなくおちる雨が燐光に反射し、いちだんと辺りが煌めきだつ。煙突が吐き出す煙も大金魚が踊るごとに盛んに噴きだされて、白く、光量によっては銀色につやめきたきたての飴みたいにねばっこいのが、何本も何本もロータリーに垂れ、それを金魚がひれで掴んで、もってぐるぐるとびはねている。

 町から突然金魚が湧きだしてきて、それらがほたほたと笑いながら男の周りで踊り出します。わけわかんないですよね。ぼくもわかりません。でもぼくはこういうのけっこう好きです。特にこういう踊るような文章は、読んでいて気持ちがいいです。

小説というのは書きたいものがあって書くものだと思っていたし、多かれ少なかれ作者には意図があるものだと思っていました。実際ほとんどの小説にはあるのではないでしょうか。

しかし、この小説には何にもなく、純粋なモチーフだけを描いたものだけで構成されています。芸術性の高い、絵画を見ているような、しかし幻想的というにはあまりにも生々しい説得力を持つ小説でした。

芥川賞を受賞した同氏の作品「きことわ」にも、このようなある種の、現実からの乖離、夢のような現実、現実のような夢がでてきます。もう一度読み直してみようかな。

 

女性の作家について

ぼくは、どちらかというと女性作家の書いた本のほうが好きです。特に意識して区別しているわけじゃないのだけれど、好きな本を挙げてみると、女性作家のもののほうが圧倒的に多い。

なぜかはよくわからない。けど、自分なりに考えてみました。

 

これは多分に偏見も含まれていると思いますが、男性の作家の小説は、論理的な組み立てによってできたものが多い気がします。「これはこうだからこうなってこうなる」みたいな。それが悪いわけじゃないし、面白いものもたくさんある。けれど、私は、なんていうんでしょう、感情のうねりをそのまま文章にしたような、生きている新鮮な感情そのままを話のなかに閉じ込めたような小説のほうが好みなのです。そして、そういうものは女性が書いたもののなかに多くあるような気がします。女性のほうが、感情を豊かに表現できる方が多いのでしょうかね。それとも私が女性寄りの感性を持っているだけなのか……?

しかし、ぼくは以前から、女性作家の小説について思っていることがあります。

それは、女性作家の小説には女性性について書かれたものがすごく多いということです。性別を変えると話が成立しなくなるもの、「女とはこうである」みたいな、「女とは」がついたものがとても多いような気がします。少なくとも男性作家が男性性を意識して書いたものは、女性のものに比べると少ない気がする。

とにかくそれらの女性性を意識した作品は、女性であることの苦しみや喜びについて書かれたものがとても多い。おそらくそれだけ需要があるのでしょう。そしてそれが嫌だと言っているわけでは決してないのです。

しかし、それらを読んでいて、ぼくは少し寂しい気持ちになったりします。まるで一緒に遊ぼうと思って女の子たちに近づくと、「お前は入れてやんない」と言われ、のけ者にされてしまったような少年のような気持ちになります。いや、そもそも男のぼくが一緒に遊べると思うこと自体が傲慢なのかもしれませんが、それにしても彼女たちはとても楽しそうで、ぼくは遠くで砂場いじりでもしながらそれらをちらちらと窺い見ることしかできません。「別に男女いっしょに遊んだっていいじゃんか……」とかブツブツ文句言いながら。

でも、そこまで女性作家が女性性について書くのは、女性が社会の中でマイノリティーの立場にあるからなのかもしれません。女性だから感じた苦しみ悲しみが多いからこそ、それについて書かれたものも多くなる。男性にはわからない苦悩が、女性にはあるのかもしれません(ただぼくが鈍感なだけかもしれない)。そう思うと、女子会とか、「女子」でくくられたものがたくさんできるのが納得できます。それを逆手にとって女性の権利を必要以上に主張するのも良くないけれど、男性は女性の気持ちをできるだけ理解するよう努力して、なにより性別によって差別されることのない国になればいいですね。でもそうしたら、女性作家は減ってしまうのだろうか?うーん……。